怖くて泣いちゃった。

冗談でもなんでもない。言葉の通りです。

泣いちゃった、なんて可愛らしいものではありませんでした。


ベソをかきました。

「なんで...こわい、気持ち悪い、なんでぇ...」と口走りながら。


初めて、読んだことを後悔したかもしれないと思ったほどに怖かった。これまで読んだどのホラー小説よりも恐ろしかった。


今日のブログは、「読了メモ:仮想儀礼」です。


人間が一心に何かを信じ崇拝する姿というものに、私は嫌悪を、そして嫌悪を超えての恐怖を覚える人間なんだなと、薄々自覚してはいたものの、今回の作品によって確信させられた気がします。その嫌悪恐怖がどこからやってきているのかまではまだわかりません。今後、深く考察するなりしてみたいと思いつつ、自分の浅知恵で考察するまでもなく、本を探せば解説書などがあるのだと思いますけれど。


さて。

(私的)毎度圧倒の篠田節子さんの作品ということで意気揚々と読み始めたものの、途中から一気にペースダウン。「怖すぎワロタwww」などと、高みの見物的に楽しんでいられたのは最初だけ。超絶重量級。あまりの圧に「先を読みたい、読みたいけれど、、、ちょっと待って」と、続きを読みたくて仕方が無いのにどんな展開が起こるのかが恐ろしすぎて読み進められない。次の展開を受け止められる状態でないと...。今読むのはちょっと控えておこう。などと、何度も読むのを中断しました。


物語は、ほんの些細な弾みとも言っていいほどの感覚で、ビジネスとして宗教を立ち上げた男の話。内容ずっしり上下巻の長編小説。序盤では、さまざまな事情を抱えた人間がやってくるが、その中には、どう見てもしかるべき窓口へ行かせその道の専門家の手が必要な者がいる。


占い師としてその席に着いたことのある人間なら、きっと一度は相見えた経験があるのではないでしょうか。わたしには既視感、身に覚えのあることでした。加えて、元役所勤め人だった主人公(教祖)の社会感覚に同感と思う自分が、この物語へのめり込んでいったのは当然と思います。


信者との厄介事いろいろが幾度か展開し、中盤ではその界隈で強い勢力を持つ宗教団体との話に入っていく。これがまた登場する人物も起こる展開も、いよいよ大ボス登場クライマックスか!と思える高まりで進んでいくものだから、てっきり私はその辺りがこの作品の山場だと思っていました。世の中には触れてはいけない領域があるんだ、怖いね。的な。


いいえ、全然。

まったく違いました。


確かに、大手宗教団体との絡みによる色々では一般市民とはかけ離れた階層・出来事との抗争で、一体次に何が起こるのやら何をされるのやらが怖くて怖くて、休み休み読んでいましたが、読み終えてみればその辺りの話など、流石に些末とまでは言いません。言いませんが、強烈な血生臭さを帯びてはいるものの「スリリング」「サスペンス」という表現で事足りてしまいます。


本番は、そのあと。

そこから先は、人間ホラー。

この物語の神髄。真骨頂。地獄の始まり。


教祖となった主人公がなまじっか常識人なだけに、後半に進むにつれてより一層の悲愴さがつのります。いっそ正気を失ってしまえればよかった。むしろ、正気を失ってその先に向かうような者しか、教祖などという立場?役目?役職?は務まらないものなのでしょう。中盤で登場する大ボス(と思われた)現世利益塗れの大手宗教団体教祖が、もはや可愛くまともに思えてくるほどです。人間としてある意味非常にわかりやすい。欲望の権化、金・権力の亡者。我欲に憑りつかれたような人間だからこそ喰われずにいられた、団体として成長拡大をしていったのだなと分かります。


「神仏への畏れなどあったら、そもそも宗教事業など起こせるはずもない」


物語後半に差し掛かるあたりで主人公の心境を綴った一文です。


それな。の一言に尽きます。


正直、この作品を人にオススメするかと言われれば、私はしません。あまりにキツい。読みながら体力持ってかれる感覚すらあります。ですが、一読の価値は間違いなくあると思いました。(さんざん怖いと言いましたが、悲劇と喜劇は紙一重。読み方や人によっては滑稽なコメディとも捉えられるかもしれません)


現在、世の中は例の銃撃事件から宗教問題にスポットがあたっていますが(それには占い業界も含まれていますね)、この作品を知り購入したのは事件が起こる前のことでした。まさかのタイムリー。宗教をテーマにした作品を読んだタイミングが、今の世間情勢とバッティングしてしまいました。


過去起こった宗教に纏わる事件に感じた不可解さの、僅かな一面・内実を、ほんの少しだけ、この作品を通して垣間見たような気がします。そして、仄暗い気持ちになりました...


最後に。

なぜ自分はこんなにも恐怖を感じたのかを思うに、理由は様々あれど、一つに自分が占いという虚業の片端を齧っているからに他ならないと思います。(作中に寄せて表現したく、あえて蔑称ともとれる虚業という言い方をしました)


人間が人間になにか教えたり諭したり等々の所業は、常識人であろうが悪人であろうが娯楽遊びエンタメであろうが、なににせよ半端者には務まりません。表面的にはどうあれど、どう振舞えど、どう見られようと、誤解されようと、確固たる核(自分軸)を持っている必要があると考えます。それは占いも同じでしょう(もちろんそれ以外も)。そして自分がこんなにも心乱されたのは、まさしくしその半端者だからでしょう。


自分にとって程々の都合のよい塩梅など、存在しないのだと思い知らされます。例えば「これくらい稼げればいいの」「このくらいの感じでやれれば満足なの」「そんなに大きくならなくていい細々でいいんだ」などという戯言は通用しない。


特に、”虚業”は。


主人公(教祖)が辿った末路、そうなってしまった要員でもあると思います。どんどん、どんどんと、膨れ上がり押しつぶしてくるような自己矛盾が恐ろしかった。読み進めながら頭と胸が爆発しそうな気さえしました。


占いの現場で「霊感などない」「霊もオーラもみえない」と、どんなに伝えても、鑑定の様子や結果に「霊的ななにか」を見出してこうようとするお客様はいます。


占い師活動を開始した最初の頃、そのような見方をしようとするお客様に対し「視える」云々についてを全力で否定していましたが、途中から、それについて否定したり言及するのは止めました。理由は二つ。


▼私がどういうやり方で占っているかなんて、受取る側(お客様)にはどうでもいいことだから。

▼たとえ自分の本意でなくても、そのように捉えられお考えになることで、私が伝えようとした事が伝わりやすい形になっているのであればそれでいいと思ったから。


少々乱暴にまとめたので誤解されるかもしれませんが、他者に渡したものに介入はできない、ということです。そんなつもりはなくても、どう捉えられたのか受け取ったのかなど知る由もなく、こちらが驚くほど拡大解釈されていたり、ご都合に寄せられていたり、思いがけないことで感謝をいただいたり、当たった当たってない等々、色々とお感じになられます。それについてあれこれと言及するのは筋違いだと思うからです。(占いがどんなものなのかある程度ご存じの方やご自身なりの楽しみ方嗜み方を心得ている方は別です)「当たったのであればよかったでーす」「お役に立てたなら幸いでーす」などと言うのん気な会話をすることもあります。


見方言い方を変えれば、それはお客様の感覚を利用しているともとれるのです。

グレーと言えば、グレー。エンタメと言えば、エンタメ。境界は曖昧と思います。


グレーに苦しむ程度の気持ちなのであれば、手をつけてはいけない、自分はまだ手をつけてよい段階でないのでは、他色々考えてしまいました。この辺りの矛盾や葛藤は、昨年一年間の占い師活動の中で解消した気になっていましたが、鎮火したように見えて心の陰でこっそり燻っていたようです。ふたたび自分の中で火種が掘り起こされました。


自分が占いやオカルト含め不思議なことについて、どのように捉えているのか、考えるのか楽しむのか諸々。自分軸を、いま一度検める必要があると強く感じています。


「仮想儀礼」読んでよかったです。


おわり。

月子


▼追記▼

宗教創設系の作品で「砂の王国」という小説があると知りました。

それも読んでみたいと思います。(怖いけど)