記憶の破壊。
【ダムナティオ・メモリアエ】
古代ローマで反逆者とされた人物に対して行われた、その人物の記録の破壊処置のこと。元老院はその支配体制へ反逆した人物に対して記録の破壊を行い、その対象は古代ローマ人全般に及び、少なくとも2名の皇帝がダムナティオ・メモリアエを受けた。日本語訳は「記憶の破壊」、「名声の破壊」など。ダムナティオ・メモリアエを受けた人物は、その一切の存在がなかったとして、自らが遺したあらゆる痕跡を抹消された。社会的な体面や名誉を重んじた古代ローマ人にとって、ダムナティオ・メモリアエは最も厳しい措置と見なされた。(Wikipediaより)
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はー!排泄したー!!て気持ち。発露した。
— 🗝️✨ (@tsukiko_yanagi) March 24, 2021
明日からはこれ読んでみる。中瀬さんが超推しされていた作家さん。楽しみだなー。新刊のアポなんとかは予約待ちしてる。 pic.twitter.com/SD5xSom41y
読了しました。面白かったけど、夢中になっていく感覚はなかったかもしれない。読みやすいです、とても。思考のみを働かせて分析・理解しながら「なるほどなるほど。」とスルスルと読み進められました。全体的にドライな印象。無味無色ではないのですが、なんだか宇宙食を食べているような感じがしました。わたしは、じっとりと湿度を感じる不気味さ気味の悪さに心が反応するので、きっとそのような感覚を抱いたのだと思います。
主人公が真相に近づいていこうとする過程は引き込まれました。というのも、主人公が見たものの正体とその理由(他いろいろ)が最初から想像できてしまっていたので、反転のトリガーが何になるのか、どのように明かされていくのか、その辺りのカラクリが自分にとっての見どころとなりました。そしてそのカラクリが結構、、、ぶっ飛んでいる、という言い方が果たして正しいのかどうなのか。「まぁ、そういう存在もなくはない...か、なぁ????」と思えなくもないというか。世界の闇的なお話で「極秘裏に【黒の章】を娯楽で見ている一部特権階級の人間はきっといるんだろうなぁ。」と考えたことはありませんか?ソレです。
序盤は、猟奇シーンが続くので少々寒々しい気持ちになるのですが、だんだんと殺人を哲学(?)するような流れに。なぜ殺人をするのか。それは特殊なことなのか。「カインのしるし」を見つける。殺人遺伝子はあるのか?というお話。その結論には、胸を突かれたかのようなドキッと感がありました。
当作品とは全然関係ないことですが、先日読んだ【屍鬼】にもカインとアベルが深く織り込まれていたので「ここでもカインとアベルの登場か~」と思いました。なにかあるんですかね。カインとアベルに。中学高校とミッションスクールに通っていたので聖書の授業でそれなりに馴染み(?)のある分野ではあるものの、たいして深く触れようと思ったことがないので、これを機にもう少し世界観に触れてみようかと思いました。(そうすれば、屍鬼の読書中ただひたすらに苛々の対象でしかなかった静信氏へのわたしの心象も変わってくるかもしれないし。苦笑)
まとめると。ライトです。さーーーーっと読めます。
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ところで。
冒頭の「ダムナティオ・メモリアエ」は実際に執行されていた処刑法で、一切の存在をなかったことにされる且つそれは極刑にあたるのだそうですが、わたしは真逆に感じて「いいなぁ~」と思ってしまいました。たまに人様の中にいる自分を消したい、消えてくれないかしらと思うので、シンプルに「いいなぁ」なんて、愚かなこととわかっていながら、そんな気を持ってしまうのです。
自分が消えたら(死んだら)それと同時に関わった全ての人から自分の記憶を滅してほしいと思います。
話は少し飛躍しますが、わたしは一先ず母親より先に死ぬことはしないと決めています。突発的な事故やどうしようもない事態を除いて、そのように務めるということです。その理由は、ただただ、母親にはこれ以上突然の喪失による絶望を味わって欲しくないから。それさえなければ、別にいつどうなってもいいやと思っています。中二病のように聞こえるかもしれませんが、そう暗く重苦しいことではなく、人間いつ死ぬかわからない明日何が起こるかわからないじゃ~ん!と、よりラフに軽率に想うことができるというだけの話です。くわえて、本当に言葉の意味そのままに「ダムナティオ・メモリアエ」ができたなら、死んだ(消えた)瞬間に存在した証(人の記憶)を世界から消滅させられるなら、もうなんの心配もいらないな~!と安堵することができます。安堵したいのです。
恋人に振られたときには「その人の中から自分の存在ごと消えてくんないかな~」と思いました。自分のうかがい知れぬところで見知らぬ相手に「私という人間」について語られるかもしれないこと、そんな場面を想像したら、もうとにかく我慢がならなくて(そういうことをするだろうなと想像がつく相手だったというのもある)。悪く言われているかもしれないとか美談として語られることが嫌だとか、そういうこととは全くの別次元。そんなことは一切どうでもよくて、関係が切れた(死んだ)んだから全部終われよ無くなれよ、消せ!という想い一つ。
ひどい暴論です。これについては、自意識過剰が過ぎるだろと、今は思えますね。自分に対する占有意識が強すぎるんだと思います。そして、それをこうして語っている時点で特大ブーメランがぶっ刺さり、めでたく頭から血を流しています。
「ダムナティオ・メモリアエ(記憶の破壊)」なんてものが存在していた歴史を知れたことが、この作品を読んで得た一番の収穫かもしれません。(わたしの考える存在丸ごと記憶から消滅・破壊とは違ったとしても。)
他者から忘れられることが刑になるだなんて。それはそれは大変な驚きでした。
月子
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