新しいが、悲しい。
つい先月。
7月末日に地元のとある老舗とんかつ店が閉店した。
どうやらこちらのお店、多くの地元民にとって、大変に思い入れ深いお店であったよう。
自分の母親もその内の一人だった。
閉店数日前より、閉店と聞きつけた人々で行列が出来る盛況っぷり。歴史を感じさせてくれる店構えをスマホで撮影する人々。「初任給でご馳走を食べに来た」「帰省の時は必ず寄った」「会食はここで」等々、その人垣から聞こえてくるのは、お店についての思い出話ばかり。
全国津々浦々、各地それぞれで地元民から愛された老舗の閉店について、色んな声や様子を窺い知ることはメディアの中で多々あれど、それ自体を身近に直接肌で感じたことはあまりなかったから、やけに新鮮な気持ち。
な~んて、何を他人事のように言っているのか。
私自身、贔屓にしているお店が一つまた一つと消えていく昨今の事情に、日々何とも言えない淋しさ哀しさを感じているではないの。同じこと言ってたや~んと、今更気づく。
そう。そうなの。
帰郷して早一年。
開発に次ぐ開発で街の様子はどんどん変わりゆき、一体どこに向かっているのかこの街はと思わずにはいられない。
馴染みの風景は無くなる一方。
そして、馴染みのお店も無くなる一方。
辛い。
何が辛い。すべてが画一化されていくのが辛い。
そこに行けば見られる、食べられるもの、いろんな味という味が無くなっていく。確かに、お洒落でイマドキで綺麗で便利で安全で、大きく外れのない事は大変よろしいと思う。けれど、どこに行っても同じに見える。感じる。建物も内装も並んでいる物も提供される物も、すべて。
レンガ造りであったり小粋でモダンな外装であったり、人々に古くから愛されていたお店であったり。趣きある古い建物や商店等は次々と壊され、そこに次何が建つのかと思えば、どこもかしこも同じような無味無機質なマンション。チェーンのドラッグストア。ファミレス。近代的な洒落た何か。
つまらん。
心底つまらんのだよ。
そこに行けば感じる風情、逢える人、ふれあい、店づくり、いろんな要素全てが相まって醸される雰囲気。そこだけの“味”みたいなものが次々と消失、どんどんと薄くなっている気がしてならない。
余談だが、祖母の作る唐揚げは謎に美味しくてとても評判だった。私の母や親戚の人達その他大勢は、こぞって祖母に作り方を聞いていた。皆そのレシピ通りに作るのに、なぜだろう。祖母の味にはならない不思議。祖母の味覚、匙加減、なんなら体温に至るまで、その人間のいろいろが複雑に絡み合うことで生まれていた味だったんだろうと思う。もはや唯一無二といっても過言ではない気がする。
きっと、そんな味や物や色々は、祖母の唐揚げ以外にも世界中いくつもある。
お店の味等もそれと同じ。
チェーン店やマニュアル化されていない、個人店ならではの味、その他諸々。
わたしはそれが楽しくてお店選びをする人間だから、本当につまらない。
確かに今の世の中、大型商業施設やら100均、ドラスト色々、やろうと思えば一つで全てを賄える。便利だけれど、あまりにインスタントな暮らしは好きじゃない。出来得る限り、餅は餅屋精神を忘れずにいたい。
だから、わたしはこれからも、ずっと、今後もう二度と同じものにはふれあえないであろう物・事、唯一無二と感じる個人店を、たとえ不便なことがあったとしても利用し続けたい。
まあしかし、これは好みの問題でしかないし、そういう流れは止まらないであろう。実店舗自体が無くなっていく流れすらある。そもそも、私の言う画一的なものの中でだって、前述した“味”のようなものやそれに纏わる各自の想いは生まれているはず。別に、どこにだってどのようなものにだって、それだけの唯一な何かってのはある。
それは分かっている。
自分が、ただ画一的なものには魅力を感じないよってだけの話。
ここまでぐちゃぐちゃと打ち込んだ末にはたと気が付いた。
たった一文で終わる話を、長々と書き放ってしまって草。
新しいものは綺麗で気持ちがいいし均一的であることによるメリットは多けれど、そればっかりになってしまわれちゃうとね...っていう(そしてそれに付随する色々の)お話でした。
以上、おわり。
と締め括りたいところだけれど、まだ言い足りないからもう少しだけ。
というわけで、つづく。
だいたい、長く続いていることが良い・古く趣きがある、などという感覚がもう違うのかなとも思う。古きに良きを感じてしまうような私と、どんどん刷新!新しいものを!に良さを感じる人。そして、今はテクノロジーの力(?)によって次々に新しい文化やらなにやらが生まれていて、それに価値があると思う人が多いっていうことなのかしらね。新時代ってやつ?(多分違う)
知らんけど、そんなようなことを取り留めなくモヤモヤと考えながら、ふと思い至ったこと。
歴史という果てない流れの中、これまでも、変わりゆく世界や街や人々に、いま私が感じているような寂しさ哀しさを、同じく抱きながら死んでいった人がいるのかなと想いを馳せると、なんというか、こう、すごく大河の一滴を感じる。(いきなり壮大w)
養源院でのお話を聞いて涙したあの時の感覚ふたたび。
過去、日本に他国の文化が入ってきた頃なんかも、近代化の波すさまじく消えていった物事は沢山あったろう。消えた存在を覚えている人間も少しずついなくなり、最終的になかったことになる。そしてまた新しい何かが生まれ、それもまた消えていく。
その繰り返しが今も淡々と続いているだけで、この先も続いていく。
諸行無常。ただそれだけのことなのよね。
わかってるけど、無くなっていく哀しみは止められないから、こうやって人知れずおセンチに吐き出し書き綴っているのである。
さて。
現時点で既にあと数年後にはその存在を味わえなくなってしまう可能性大!なお店がいくつかある。もしその時が来たとしても、悔いの残らないよう、日々折々で足しげく通う私なのであった。
おわり!
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全然違う話なんだけど、田舎の都市開発について思うことをついでだから書いておいちゃう。蛇足オブ蛇足。
昔、マックがカフェ仕様を導入しはじめた時があったじゃない。もう10年以上前のことと記憶してる。(調べたら2012年頃に渋谷に1号店が出来てた)お洒落っぽい内装、見た目はよいが座りにくい椅子に配置。なんなの?スタバにでもなりたいの??と思ってた。
よく利用していたいくつかのマックが次々と改装され、その使い勝手の悪さに違和感を覚えたことが思い起こされる。マクドナルドはマクドナルドであって、スタバにはなり得ないんだから、マクドナルドはマクドナルドであることを追求して欲しい。そんなことを偉そうにも思ったのだった。
別にどちらが上だとか下だとかでなく、それぞれに役割があるじゃんって話。
それと同様に。
都会と同じようなことをやったり目指したりしたとて、長崎が東京的な都会になることはないんだから、長崎は長崎の地の利(そんなものがあるか?と問われば何も言えないけどw)、歴史や景観に、何よりスケールに見合った街並み街づくりやら仕事をしてもらえたらなと切望する。
この期に及んで箱モノを作り、都会っぽい巨大施設(商業含む)をぶっ建てる。こんな大層な物を作ってどうやって運営継続・維持していくのやら。マジで一体どうするつもりなんだろう?????とずっと思ってる。
なんか、、、
本当になんなんだろうね。
昔よくワイドショーの話題にされていた洋館仕立ての役所等に感じるアレ。
場違い甚だしい。なんでそうしようと思ったの?どういう感性からそれに至ったの???みたいな。
不可解でならないしセンス無さすぎじゃね?って思う。色んな意味で。
しかし、これもまたすべては変わりゆき、そしてそれを巡り繰り返すのよね。
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