不要不急って、なんだろな。

■不要不急:

・する必要もなく、また急ぐ必要もないこと。とりわけ重要でもない用事などについていう。

・なければないで困らず、特に急いで揃える必要のない品物などにも用いる。

(デジタル大辞泉より)


だそうだ。

最近「不要不急」についてよく考える。その言葉の輪郭をはっきりさせる度に、虚無る。


去年あたりに配信されていたYouTube動画で、堀江貴文氏が「人間そのものが不要不急の存在なんだが?」的な話をしていたけれど、いま改めて「確かにな...」という気持ちになっている。


そもそも、この言葉は単体ではなくて「誰にとって」不要不急なのかを明確に定義する必要があるのではないかと考える。そして、それを突き詰めていくと、もはや存在が不要不急、という答えに至り、虚無る。この負の堂々巡り。


「自分にとって」では、もう駄目なのだろうかな、と思う。

なにか行動をしようと思うとき、出かけようと思うとき、「自分にとって」としたら、恐らくなんでも要で急な用事になる。そう設定できてしまう、と言う方がしっくりくるかもしれない。取り寄せしたものをお店に取りにいくのも、本でも何でも、楽しみな何かを発売日に手に入れたいと出かけるのも、なんだって「自分にとって」としたらば、その用事は誰でも当人にとってみればそれはそれは重要な用事になり得る。他人からしたら大事ではないことでも、当人にしてみたら大事なことってたくさんある。しかし、個を優先していては収まるものも収まらないから、ここは控えよう堪えよう我慢しようと、出来ることには出来るだけそのように努める。「不要不急」と処理する。


もう少し範囲を広げてみる。遠方に暮らす家族と会う。これは、現状アウトとされている。帰省は控えろ、というのが国のお達しだから。さて、もう来年がないであろう人との面会は、どう線引きしたらいいのだろうね。自分と身近な存在に当たる人はOKラインの内側、要で急な用事枠に「それはしようがないこと」と、きっと入れてくれる場合が多いと想定する。では、他人は? 社会は?? 他人からしてみれば、知らん人間が身内の誰かの死に目に会えようが会えまいがどうでもいいことであろうし、社会に、ましてや国にとってなんて、もはや塵屑に等しい些末な用事でしかない。そもそも、他人がどんな事情を抱えて行動活動しているかなんて、いま電車で隣に座っている人が、どんな事情を抱えているのかだなんて、誰も知る由もないこと。


「これは許されるのか」「世間様には許されないかもしれない理由だが、わたしにとっては要で急なのだ」「だから、家を出るんだ。出かけるのだ」と、選択決断の連続。こんなことをしていては摩耗していくばかり。何か一つ行動しようと思うたびに、この線引きをどこにどのようにするかと逐一考えていたら、もうくたびれてしまった。


趣味と仕事が一体化している人はどうしているんだろうか。たとえば、旅行。その人にとっては仕事の一環でも、他人から見れば「今のこのご時世に、県境を越えて移動(旅行)してんじゃねーよ」となる。そう言いながら、多くの人が、仕事のために満員の公共機関で通勤している。県境を越えて。わたしが利用している沿線の駅ホームでは、しきりにテレワークを促すアナウンスが流れている。「テレワークしてくれなんて、わたしに言われても、どうすることもできんのだが???」と思いながら満員電車に乗る。(これはわたしの個人的な気持ち)


「自分にとって」「家族にとって」「仕事にとって」「会社にとって」と一つ一つ枠を広げていって、最終的には「社会にとって」「国にとって」「世界にとって」「人類にとって」...果ては「地球にとって」「宇宙にとって」...キリがないが、とりあえず設定するに最適な大枠は「社会にとって」なのだろうと考えるが、そう考えていくと、冒頭の堀江氏の「存在が不要不急」に行きつく。「やっぱり僕は、いらない人間なんだ!」というシンジ君のセリフが頭の中に木霊する。そうなのよ。わたしいらなくね?と、シンプルにそう思う。


どんな用事も、仕事も、趣味も、巡り巡って誰かのためで社会のためで、お金や色んなことがぐるぐる回っていると思うのに、そのどこか一か所だけにバツをつけるだけでは、どうにもうまくいかないのでは?などど、考えてもどうにならないことに、いろいろと思い耽ってしまう。時間の無駄レベルで意味無いのに。


気がづけば、もう3年は帰省していない。危ない峠を何度も越えてくれた齢97になる祖母が、これはいよいよ...どうなる???という状況らしい。去年も危ない峠を見送った。セーフ!とひと息ひと安心し、もうしばらくしたら世情も落ち着いているかもしれないし、またその時に、その時までは頑張ってもらおうと話していた。けれども、一年経った今でも世の情勢は相変わらずで、今年も「帰らない」選択をしている。しょうがない。


流行り病なんて気にしていられない、そこまで自分を縛られたくない。県跨ぎもなんのその、かかったら自己責任で別に良いと宣言する人と遭遇した。わたしとの間にm暗くて深い河が流れているなと思った。罹るのは勝手にかかればいい。いま問題とされているのは、そういう話ではないのでは?等々と、疑問意見が沸々。しまいには「わたしはこんなに我慢しているのに...」などという、嫉妬?妬み??僻み??? どんよりした負の気持ちまでもが心内に渦巻いてきて、そんな自分にもげんなりしてしまった。


人様のそのような意見について当人と議論はしない。「ああ、そうなの」と受け応えるのみ。その人の選択、行動、生き方に口出しもしないししたくもないしできやしない。人それぞれであって仕方のないことと理解している。ただただ、遠いところに行ってしまったな、という気持ち。


今わたしがやっている対面鑑定活動だって、眉を顰められる事に該当するのだろうと思う。人のことをどうこう言う以前に、結局自分も同類なのであった。




あーあ。

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おわり。